Bible Essay
このエッセイは「すがお教会だより」の巻頭言として執筆してきたものです。
「クリスマス・メッセージ」
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光 であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打 ち勝たなかった。」ヨハネ の福音書1 章4〜5節
雪の夜、森の中で辺りの木々を照らす一本の街灯 あたと、街灯の灯りを見上げているひとりの女の子。
『ナルニア国物語』シリーズの第一巻『ライオン と魔女』の冒頭、主人公のルーシィがナルニア国に 迷い込んだ時の印象的なシーンです。闇の中の光 やみ は、いろいろな思いをかきたてます。ルーシィは 「どうして森の中に、ランプ があるのかしら」とい う素朴な疑問を抱きました。ここから、子どもたち と偉大なライオン・アスランとの出会い、そして 数々の冒険が始まっていきます。
二千年前に、ベツレヘム の家畜小屋にお生まれに なったイエス・キリストは、暗闇の中に輝くまこと くらやみ の光です。どうしてイエスさまはこの世界に来られ たのでしょう。それ は、神がこの世界とそこに住む 人々を愛されたからです。父なる神が、私たちを照 らして、まことのいのちを与えるためにイエス・キ リストをこの世に遣わしてください ました。救い主 つか イエス・キリストの十字架と復活こそ、私たちを 救って生かす神の御業です。 みわざ 今、私たちが生きているこの世界は、大小さまざ まな争いや対立が満ちていて、先の見えない 暗闇に 覆われています。しかし、世界を覆う暗闇も、私た おお ちの心を暗くする闇も、イエス・キリストの光に打 ち勝つことはできません。イエスさまと出会う時、 私たちの人生に新しい 風が吹いてくるでしょう。イ エスさまを信じて受け入れる時、神さまは私たちを 人生の新しい ステージに引き上げてください ます。
「みことば、交わり、賛美」
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
コロサイ人への手紙 3章16節
私たちの内側には、いったい何が宿っているでしょう。聖書は私たちに、キリストのことばを住まわせなさい、と勧めます。キリストのことばを、ただ読むとか、聞くとか、知っていると言うだけでなく、「あなたがたのうちに豊かに住まわせ」るようにと言うのです。それは、みことばを、私たちの信仰と生活の基盤として位置づけることであり、みことばが私たちのいのちになっていくことです。
ここには、まず、みことばを理解するという知的な面、次に、信仰と生活の基盤となるという実際的な面、そして、いのちになるという霊的な面があります。
この三つのどれが欠けても、信仰は偏ってしまいます。そのような偏りを防ぎ、矯正するのは主にある交わりです。「互いに教え、互いに戒め」という勧めは、交わりの中で生きたものとなるのです。そして、みことばを中心とした信仰の交わりの中から、真実な賛美があふれ出るのです。
神の前の謙遜
若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
ペテロの手紙 第一 5章5節
どんな人にもいろいろ誇りたいことがあるものです。自分の才能、経験、生まれ、家族、国籍、持ち物、学歴、等々。
しかし、神さまはそのようなものをもって人を測ることをなさいません。神さまは言われます。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。・・・人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサムエル16:7)と。神さまは外面で人を分け隔てされないお方です。
また、人は神さまの御前に、そのようなものに頼って立つことができません。聖書は言います。「すべての人が罪の下にある・・・義人はいない・・・みな、ともに無益な者となった」(ローマ3:9-12)と。私たちはただ、救い主への信仰によってのみ、御前に立つことが赦されている罪人です。
ですから、聖書は「誇る者は主にあって誇れ」(1コリント1:31)と言うのです。主にあって誇るとは、主の前に自分を低くしつつ、他の人々の前で主の素晴らしさを誇らかに賛美することです。神さまの前に低く歩む人は、人の前にあっても、空しいプライドや卑屈さから解放され、健全な謙遜を身につけた人です。
「救われた罪人」
義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
ローマ人への手紙 3章10節
祈りが深まる以前、私は人の足りなさ、人の罪がまず目について、一人一人のことを心から感謝するということができませんでした。それが神さまに取り扱われて、感謝をもって祈り始めることができるようになったのですが、なお、さまざまなことを通して神さまが強く示してくださるのは、自分のかたくなさであり、罪の深さです。 感謝して祈っているはずなのに、感謝の思いを素直に言葉や態度に現せない弱さ、「御名をあがめさせたまえ」と祈りながら、いまだにサウルのように自分の義を立てようとして「しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」(・サムエル15:30)と祈っている自分を見いだすのです。
けれども、神さまの愛と救いの恵みは、義人が一人もいないはずのこの世に注がれたことを覚えます。赦されてもなお罪の深い私たちですが、神さまは、そのことを承知の上で私たちを救い、そればかりか、ご自身の御業を宣べ伝えるために用いようとさえしておられるのです。主の深い愛と恵みを感謝し、御手の前にへりくだって歩ませていただきたいと願います。